島津忠良(日新公)とは?

いろは歌を作った島津 忠良(しまづ ただよし)は薩摩で活躍した戦国武将です。日新斎(じっしんさい)の号で知られています。島津忠良は1492年(明応元年)に、薩摩国伊作城(現在の鹿児島県日置郡吹上町中原)に、同城の城主である島津家の分家、伊作家の善久(薩摩国守護)と、母の常盤(ときわ:新納是久の娘)の間に長男(幼名:菊三郎)として生まれました。

忠良は21歳のときに伊作田布施城主となり、その際には三郎左衛門忠良と称してします。そして36歳のときに髪を剃り、相模守入道日新斉(じっしんさい)と号します。

宗家家督を巡る内紛で一度は鹿児島を負われるものの、天文8年(1539年)の8月、「市来鶴丸城の戦い」で実久の弟・忠辰を討って実久は降伏。本拠地の出水へと隠棲(いんせい)させることに成功しました。

ここに及びようやく忠良・貴久親子は名実ともに島津宗家の家督相続と守護職復帰を果たすことになります。

島津忠良は「いろは歌」の作者としても有名であり、このいろは歌は家臣の団結と精神的な支柱に大いに役立ったといわれています。また、このいろは歌は後の薩摩藩士の「郷中教育」の規範となり、現代においても大きな影響を与え続けているのです。

郷中教育とは

郷中教育に関しては 郷中教育 都城 明道館」様で纏められている内容を一部引用させていただきました。

郷中は、青少年を「稚児(ちご)=現在の小、中学生程度」と「二才(にせ)=高校生から未婚の青年まで」に分けて、武道修練(薬丸自顕流等の武術)・忠孝実践(日新斎いろは歌暗唱、薩摩義士伝輪読会等)・山坂達者(やまさかたっしゃ=野遊びによる体力養成)・詮議(ディベート方式の討論会)を通じて、先輩が後輩を指導することによって、強い身体力と不屈の精神力を兼ね備え、薩摩武士の要素として一番大切な事とされていた「主体性・実践力」を持つ人材を育てようとする組織でした。

現在全国で活動されているボーイスカウトのようなものと考えれば分かり易いかもしれません。(一説にはボーイスカウトも、明治の代に薩摩の元勲達との話から郷中教育に触れたイギリス貴族が母国で始めたのが始まりとも言われております。)

薩摩武士の子どもたちは、一日のほとんどを同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、躾(しつけ)・武芸を身につけ、勉学に勤(いそ)しみました。年長者は年少者を指導すること、年少者は年長者を尊敬すること、負けるな、うそをつくな、弱い者をいじめるな、ということなどを、人として生きていくために最も必要なこと「薩摩の訓え」として教えました。

参考文献:松本彦三郎著書「郷中教育の研究~尚古集成館出版~」

広告

このページの先頭へ